先日、仏教の「空」と「縁起」について書きましたが、その時に思い出したことがありました。
井上雄彦さんのマンガ「バカボンド 29巻」で、沢庵和尚というお坊さんが、主人公の宮本武蔵に言った不思議な言葉です。
お前の 生きる道は
これまでも これから先も
天によって完璧に決まっていて
それが故に
完全に自由だ
沢庵さんは、タクアン漬けを発明したとか、関東に持ち込んだ、とか言われている、有名なお坊さん。
以前、この言葉とそのストーリーの前後を何度も読み直したのです。意味がわからないから。
わからない、というのは悪い言い方で、もっと細かく言うと、わかったようでわからない。
わかったらスッキリしそう。
なので、何度でも読み直しましたが、結局その時はわからなかったです。
でも、先日思いました。
ブログの上で「空」と「縁起」について解釈をしながら、沢庵さんの言葉に似てる、と。
わかる気がしたので、もう一度読んでみます。
何に祈るのか?
京都の一条寺下り松で、吉岡一門七十名と決闘して勝利した武蔵。しかし自身も足に大怪我を負ってしまいます。そこに旧知の沢庵和尚が訪ねて来ます。
怪我の療養中、合掌をする仏像を掘る武蔵に沢庵さんは聞きます。
七十人も人を斬った後、何に祈るか?
武蔵は、自分の歩いて来た道に祈ると言いました。
武蔵の歩いてきた道は、まさに自分が強くなり、相手を倒す道です。
仏像が合掌しているのは倒した相手に対するものでしょうか。
執着は自分を苦しめる
沢庵さんは、相変わらずお前は「我執」ばかりだ、と武蔵に指摘します。どこを切っても自分の事ばかり。
一般的に「我執」というと、自分の我を通す事や、ワガママ人間のように読んでしまいます。
でも仏教的な読み方をすると「自分の心身の中に、永久に変わる事のない実体があると考えて物事に執着すること」だそうです。
このシーンは仏教的解釈が必要で、この解釈が無いと、おそらくこのやり取りは理解できません。
武蔵の場合、自分は永久の存在で、その実体である己は剣で最強にならなくてはいけない。
しかしその執着の為に、吉岡一門七十人は死に、その家族は悲しみ、それ以外にも何人もの相手を殺して来ました。
武蔵も、人の命の大切さは気づいているのですが、自分が最強になる、という「我執」に捉われ、勝ち続ける事から抜け出すことが出来ない。だから苦しいのです。
剣じゃなくても同じ。
自分はこうあるべき、なぜ他人は自分に対してああなのか、など、自分がずーっと同じモノだと考えて執着を持つと、人間は苦しみに捉われます。この「我執」を捨てろ、という事ですね。
そう。「我執」を捨てる事は、「空」を実践する事と同じです。
関係性に飛び込み、成長する
続けて沢庵さんは言います。
大怪我をしたのであれば、天は戦うのをやめろ、と言っているのでは?
幼馴染のおつうと一緒に暮らせ。
江戸で将軍家に仕えてみろ。
武蔵は、おつうに好かれ、将軍家にも、世間にも求められています。
沢庵さんは武蔵の成長のために、「我執」を捨てて、違う道を生きるように説きます。
違う道に進み、触れ合い、変わり、自分の関係性を広げて成長していく事。これは「縁起」ですね。
どうにでもなれ
そんな沢庵さん自身にも「我執」がありました。
人を救う方法を懸命に探しても見つからず、人間の世に絶望した事があります。
その時、沢庵さんの「我執」がムクムク出てきて、そんな事アホらしい、やめろ、と沢庵さんを苦しめます。
そこに天の声が聞こえたそうです。
それが冒頭の言葉。
お前の 生きる道は
これまでも これから先も
天によって完璧に決まっていて
それが故に
完全に自由だ
これまでも、これから先も生きる道、というのは、自分の関係性の中にしかありません。
関係性というのは、自分が産まれる前からあるものです。つまり関係性は「天」によって完璧に決められています。
しかし決められてはいても、その関係性はシンプルなものではなく、無限の因縁で出来上がっているものです。
だから執着を捨てて「もうどうにでもなれ」と関係性に身を委ねた時、無限の因縁と交わりが始まり、自由が手に入る、と。
この交わりを沢庵さんは、どこか根っこで天と繋がっている、と表現していると解釈しました。
天と繋がっている、っていう言い方はカッコいいですね。
今回の長期休暇も、どうにでもなれ、です。